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第二次世界大戦における連合国軍のイタリア侵攻()は、1943年9月にハロルド・アレキサンダー大将率いる第15軍集団(マーク・クラークのアメリカ第5軍、バーナード・モントゴメリーのイギリス第8軍から構成)によりイタリア本土に侵攻を行った作戦である。この作戦は、イタリア戦線において、シチリア島上陸作戦に続いて行われたものである。この作戦は、西海岸であるサレルノ近辺への上陸作戦であるアヴァランシェ作戦とカラブリアとターラントへの2つの支援作戦(前者がベイタウン作戦、後者がスラップスティック作戦)で構成されていた。 ==背景== ===連合国の戦略=== 北アフリカにおける枢軸軍を破った後、連合国の間で次に何を行うべきか同意が取れていなかった。特にウィンストン・チャーチルは、「ヨーロッパの下腹部」(文献によっては「ヨーロッパの軟らかい下腹部」と誤記)である、イタリアへの侵攻を望んでいた。 戦争中のイタリアにおける一般的支援は次第に減少しており、彼は侵攻によりイタリアと、地中海におけるイタリア海軍の影響を削減することができ、連合国の輸送経路を開けると信じていた。これは、中東と極東における連合国軍への補給を容易にし、イギリスやアメリカからソビエトへの支援を増加させることが簡単になる。加えて、これはドイツ軍の戦力を分散させ、計画中のオーバーロード作戦の地域から戦力を減らすことになる。 しかし、ジョージ・C・マーシャル大将とアメリカのスタッフはノルマンディ侵攻を遅らすような作戦を実行することは望んでいなかった。しかし、1943年中に「オーバーロード作戦」を実行することが不可能であることが明確になった時に、その後の作戦の計画なしに、北アフリカにおける戦力を用いてのシチリア島上陸作戦に同意した。 連合国軍統合司令部(AFHQ)は地中海作戦戦域における連合国陸軍戦力の作戦を統括しており、シチリア島及びイタリア本土への侵攻作戦の計画と指揮をとっていた。 1943年7月、連合国軍はシチリア島侵攻作戦(ハスキー作戦)を決行した。枢軸国軍は捕虜になることを避け、イタリア本土へ撤退したが、作戦自体は大成功であった。この作戦の結果、イタリアにおいて大きな事件が発生した。クーデターによりムッソリーニがイタリア政府のトップから引き下ろされ、イタリアが和平のために連合国と接近し始めた。これにより、イタリアへの迅速な侵攻が、イタリアの降伏を早め、ドイツ軍に敵国内で戦闘を行わせるという状況に陥らせ、その結果、早急な軍事的勝利が可能となると考えられた。しかし、イタリア(と特にドイツ)の抵抗は非常に強力であることが分かり、イタリアでの戦闘はベルリン陥落後も続いた。更に、侵攻による、連合国軍への食料の補給の問題と占領地域への補給の問題が浮上した。連合国軍は占領地域に食料を供給するか、ドイツ軍に明け渡し、その重荷を背負わせるかの判断が必要となった。同様に敵対的なドイツ軍に占領されているイタリアはドイツのアルベルト・ケッセルリンク最高司令長官に対する新たな問題を生じさせていた〔John Grigg, ''1943:The Victory that Never Was''〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イタリア侵攻 (第二次世界大戦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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